「たとえ明日、世界が滅びようとも……」

   

世界の偉人の名言を日本語に翻訳すると、たまに、微妙な部分の翻訳によって、名言の印象が変わってくると思うのです。

ドイツの宗教家、マルティンルターの名言

たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える。」と、一般には翻訳されています。

英語での原文は以下のとおりです。

Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.

この原文を日本語に翻訳するにあたっては、バリエーションがいくつか考えられます。

一番、原文に近く翻訳すると

たとえ世界が明日滅びると知っても、私は、リンゴの木を植え続ける。

という訳し方ができます。

一般には、この名言は、「リンゴは実をつけるまでに数年かかる植物であるから、明日に世界が滅びるのであれば、今日植えたリンゴを収穫することはできないから無意味ともいえる。しかしながら、リンゴを収穫できるかどうか、という損得で考えているのではない。リンゴを植えるという生産的な行為をすること自体が人間の心に喜びをあたえるのだ。したがって、世界が滅びようがどうしようが、私は、今の喜びのために、リンゴを植えるという生産的なことをするのだ」

という解釈がされることが一般です。

マルティン・ルターは、ルター派プロテスタントを新しく興すという、宗教改革をおこなった偉人です。

自分の改革運動が成功するかどうか、ということが当然、気になったと思います。

しかし、改革運動が成功するかどうかという、結果だけが重要なのではないということです。

成功することだけが大事なのだとすれば、もし改革運動が失敗したら、その運動は価値がなかったということになるのでしょうか?

そういうことではない、とルターは思ったはずです。

成功するか失敗するかは考えず、自分は「宗教改革」という正しい行動をしている、その「行動をしていること」自体を喜びと考える、という心意気が伝わります。

後半に「今日」を入れるか

原文には、「今日私はリンゴの木を植える。」という「今日」に対応する表現はありません。

ですから、「今日」という言葉を入れたのは翻訳者の創作なのですが、日本語の表現としては、「今日」を入れたことで、文意が引き締まった感じがあります。

たとえ世界が明日滅びると知っても、私は、リンゴの木を植え続ける。

たとえ世界が明日滅びると知っても、今日、私は、リンゴの木を植え続ける。

「明日」と「今日」が対比されることで、文章の意味が少々違ってくるように思います。

たとえ世界が明日滅びると知っても、私は、リンゴの木を植え続ける。

という文章の場合には、今日とか明日とかの話ではなく、過去から続く慣習的な行為に着目していることになります。

一方で、

たとえ世界が明日滅びると知っても、今日、私は、リンゴの木を植え続ける。

という文章の場合には、過去から続く慣習的な行為ではなく、「今日の自分の意志」「今日の自分の気持ち」という、「今日」に着目した表現になってきます。

どちらが正しいというわけではありませんが、「今日」を入れるか入れないかで、着目するポイントが違ってきます。

リンゴの木を「植える」か「植え続ける」か

英語の原文には「still」が入っていますから、文意に則すると、

たとえ世界が明日滅びると知っても、私は、リンゴの木を植え続けるだろう。

と翻訳することが正しいのでしょう。stillには「今までと同じ状態」「今までどおり」という意味があります。

しかし、「植え続ける」ではなく「植える」をあえて使う例もあります。

たとえ世界が明日滅びると知っても、私は、リンゴの木を植えるだろう。

ただ、これだけだとなんとなく、後半の文意がわかりにくくなります。

そこで、「今日」を入れて

たとえ世界が明日滅びると知っても、今日、私は、リンゴの木を植えるだろう。

とすると、「明日に世界が滅びるとしても、リンゴの木を植えるという生産的な行為をするという決意」という意味が明確になってきます。

「知っていたとしても」のあつかい方

たとえ世界が明日滅びると知っても、

というと、世界が滅びるのは確定事項ということになりますが、

たとえ世界が明日滅びるとしても、

と翻訳すると、世界が滅びることは、あくまで仮定の話、想像の話ということになってきます。

ただ、文章全体からすれば、世界が実際に滅びるかどうかは、わりと枝葉の問題であって、要は、自分の気持ちのうえでの覚悟が重要な問題となるので、

たとえ世界が明日滅びるとしても、

という表現の方が語呂がよいので、こっちでいいのではないでしょうか。

まとめ

Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.

の翻訳の仕方には、2とおりあり得る。

一つは

たとえ世界が明日滅びるとしても、私は、リンゴの木を植え続ける。

という、過去から続く慣習的な行為の大事さを強調する翻訳。

もう一つは

たとえ世界が明日滅びるとしても、私は今日、リンゴの木を植える。

という、「今日」の行動を着目することで、リンゴの木を植えるという生産的な行動をすること自体の貴さを強調する翻訳。

どちらも良い訳だと思います。元のルターの本心としては、宗教的な意味も込めて前者の翻訳が近いのかもしれませんが、現代に生きる私たちとしては、「今日」の心に直接関係してくる、後者の翻訳の方が、

心に響くように思います。

そこで、最後にもう一度。

たとえ世界が明日滅びるとしても、私は今日、リンゴの木を植える。

 

 

 

 

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